2013年12月13日
小津安二郎青春館 没50年
2013年12月12日は、小津安二郎が没して半世紀、50年になります。
そして生誕110年でもあります。
生まれた日と亡くなった日が一緒といえば、11月15日の坂本龍馬も(すみません‥比較対象がいつもこういうパターンで‥)
かれこれ溜まりに溜まった古い所感を、今頃引っ張りだしますが、9月末に松阪へ出かけた折、小津安二郎青春館を訪ねました。
松阪へは数度訪ねていますが、今回は松阪出身のKさんと一緒。
そのKさんに教えてもらうまで不覚にも、小津安二郎監督が松阪で青春時代を過ごした、ということを知りませんでした。
小津安二郎青春館は小津安二郎生誕百年を記念して、彼の実家跡につくられたものです。

・小津安二郎青春館・
彼の父は松阪商人ですが、店が東京にあり(江戸店持ち松阪商人という)、彼も東京で生まれました。
しかし、子どもたちは故郷で育てたいという父の考えで、母に連れられ兄妹とともに9才の時に松阪へやって来ます。
東京や京都に店を構えていた近江商人も、近江八幡や五個荘など故郷に本宅を残したので、似たような感覚でしょうか。
そこから尋常小学校、旧制中学校と学び、19才までの青春真っただ中を松阪で過ごすのです。

小津安二郎青春館では、子どもの頃の絵や作文、その他、日記や手紙などの資料が展示されていました。
小学校の六学年の時に書いた作文には、舌を巻きました〜
のちの、小津作品の原点をみるよう。
ふと目がさめると軒の風鈴は「ちりんちりん」とおとづれ、はたにあった新聞紙は風に「づろづろ」と次の間にふけて行く。
(「祇園祭典」という作文から抜粋)
風に煽られた新聞紙の音を「づろづろ」と表現するなんて!
11歳の子とは思えない、なんとも心憎いステキなセンス!
栴檀(センダン)は双葉より芳し‥とは、このことでしょう。
絵やカメラが好きで、16歳の頃から、松阪にあった「神楽座」で映画を見るようになり、それが小津安二郎が映画監督へ進むきっかけとなったといわれています。
熱烈な小津ファンでなくとも、小津映画を見たことのある人は訪ねたくなる資料館ですが、2013年10月末で閉館すると告知されていました(9月時点)。
地元ファンの熱望で松阪市が開設し、「松阪小津組」(映画のスタッフみたいでかっこいい!)が運営されていましたが、開館して10年を区切りとされたんでしょうか。
残念です‥
実家の建物は火災で焼けてしまったけれど、裏庭に夏蜜柑の木が残っているのだとか‥
うっかり見るのを忘れてしまいました〜
その後、館がどうなったか分からないのですが、また再開されるのを望んでいます。
それから、館で教えていただいた、安二郎と基次郎のニアミスな話題は、大切に大切に♪後ほど語っていきたいと思います。

「バッター」の笠智衆さんも好きですが、
原節子さんはやっぱり、きれい!
そして生誕110年でもあります。
生まれた日と亡くなった日が一緒といえば、11月15日の坂本龍馬も(すみません‥比較対象がいつもこういうパターンで‥)
かれこれ溜まりに溜まった古い所感を、今頃引っ張りだしますが、9月末に松阪へ出かけた折、小津安二郎青春館を訪ねました。
松阪へは数度訪ねていますが、今回は松阪出身のKさんと一緒。
そのKさんに教えてもらうまで不覚にも、小津安二郎監督が松阪で青春時代を過ごした、ということを知りませんでした。
小津安二郎青春館は小津安二郎生誕百年を記念して、彼の実家跡につくられたものです。
・小津安二郎青春館・
彼の父は松阪商人ですが、店が東京にあり(江戸店持ち松阪商人という)、彼も東京で生まれました。
しかし、子どもたちは故郷で育てたいという父の考えで、母に連れられ兄妹とともに9才の時に松阪へやって来ます。
東京や京都に店を構えていた近江商人も、近江八幡や五個荘など故郷に本宅を残したので、似たような感覚でしょうか。
そこから尋常小学校、旧制中学校と学び、19才までの青春真っただ中を松阪で過ごすのです。
小津安二郎青春館では、子どもの頃の絵や作文、その他、日記や手紙などの資料が展示されていました。
小学校の六学年の時に書いた作文には、舌を巻きました〜
のちの、小津作品の原点をみるよう。
ふと目がさめると軒の風鈴は「ちりんちりん」とおとづれ、はたにあった新聞紙は風に「づろづろ」と次の間にふけて行く。
(「祇園祭典」という作文から抜粋)
風に煽られた新聞紙の音を「づろづろ」と表現するなんて!
11歳の子とは思えない、なんとも心憎いステキなセンス!
栴檀(センダン)は双葉より芳し‥とは、このことでしょう。
絵やカメラが好きで、16歳の頃から、松阪にあった「神楽座」で映画を見るようになり、それが小津安二郎が映画監督へ進むきっかけとなったといわれています。
熱烈な小津ファンでなくとも、小津映画を見たことのある人は訪ねたくなる資料館ですが、2013年10月末で閉館すると告知されていました(9月時点)。
地元ファンの熱望で松阪市が開設し、「松阪小津組」(映画のスタッフみたいでかっこいい!)が運営されていましたが、開館して10年を区切りとされたんでしょうか。
残念です‥
実家の建物は火災で焼けてしまったけれど、裏庭に夏蜜柑の木が残っているのだとか‥
うっかり見るのを忘れてしまいました〜
その後、館がどうなったか分からないのですが、また再開されるのを望んでいます。
それから、館で教えていただいた、安二郎と基次郎のニアミスな話題は、大切に大切に♪後ほど語っていきたいと思います。
「バッター」の笠智衆さんも好きですが、
原節子さんはやっぱり、きれい!
Posted by sho惑星 at 09:23│Comments(2)
│かかる日のこと
この記事へのコメント
福山さん、おはようございます。小津安二郎監督の生涯に、松阪の地が関わっているとは僕もまったく知りませんでした。話題の中心は少しそれますが、福山さんがブログで触れられていた笠智衆さんは、小津作品には欠かせない、味わい深い俳優さんでしたね。笠智衆さんと聞いて最初に思い出すのは、高峰秀子さんが大石先生役をされた「二十四の瞳」です。そのときは分校の用務員さん(?)役でした。奥さんの役はたしか浦辺粂子さんやったと覚えてます。大石先生が子供たちのいたずらで穴ぼこに落ちて足の骨を折り休んだはるときに、先生の代わりに授業しはったんです。そのときオルガンがうまく弾けなくて、夜に一所懸命練習したはる場面、そして当時はドレミじゃなく「ひいふうみい」と言ってたんですね。オルガン弾きながら「ひっひっひっひむっむい〜」なんて言って歌ったはって、上手く歌えなくて、たしか「次は、ちんちんちどり・・」なんて言わはる場面がありました。白黒画面に小豆島の、のどかな風景が写し出されて、心が洗われたのを思い出します。とくにラストシ
ーン。雨の中、再度教師になった、年老いた大石先生が、卒業生から贈られた自転車で学
校に向かうシーン。疲れたのか自転車を降りて押しながら歩く場面のバックに「仰げば尊うとし」の歌が流れるんです。何度見ても、涙が溢れてきますね。笠智衆さんの映画としては、その他、嵐寛寿郎さんが明治天皇役だった時の日露戦争二○三高地の攻防戦。笠智衆さんは乃木将軍役でしたね。映画は大好きです。小津監督の記念館の閉館残念。一度行って見たかったですね。日本映画万歳。
ーン。雨の中、再度教師になった、年老いた大石先生が、卒業生から贈られた自転車で学
校に向かうシーン。疲れたのか自転車を降りて押しながら歩く場面のバックに「仰げば尊うとし」の歌が流れるんです。何度見ても、涙が溢れてきますね。笠智衆さんの映画としては、その他、嵐寛寿郎さんが明治天皇役だった時の日露戦争二○三高地の攻防戦。笠智衆さんは乃木将軍役でしたね。映画は大好きです。小津監督の記念館の閉館残念。一度行って見たかったですね。日本映画万歳。
Posted by ひげさん at 2013年12月14日 07:27
to.ひげさん
在りし日の笠智衆さんのお顔やお声が鮮やかに蘇るお話、ありがとうございます♪
わたしの理想の祖父像は笠智衆さんです‥あ、晩年の、ですね。
小津映画の中に、「松阪」や「三重」という言葉が出てくるそうで、今度観る時は注意したいと思います。
二十四の瞳、といえば、中学?高校?の頃に友達と小豆島へ行って、レンタサイクルで岬の分校まで行きました。
旅慣れない頃のはちゃめちゃ旅やったので、もう一度小豆島旅をリベンジしたいです(笑)
在りし日の笠智衆さんのお顔やお声が鮮やかに蘇るお話、ありがとうございます♪
わたしの理想の祖父像は笠智衆さんです‥あ、晩年の、ですね。
小津映画の中に、「松阪」や「三重」という言葉が出てくるそうで、今度観る時は注意したいと思います。
二十四の瞳、といえば、中学?高校?の頃に友達と小豆島へ行って、レンタサイクルで岬の分校まで行きました。
旅慣れない頃のはちゃめちゃ旅やったので、もう一度小豆島旅をリベンジしたいです(笑)
Posted by by.sho惑星 at 2013年12月14日 18:39